浜崎あゆみさんと言えば、現在もアーティストとして活動されていますが、TVへの出演や新曲のリリースの頻度は以前に比べるとかなり少なくなりました。
下手をすれば「見かけなくなった人」にも取られかねない位の減少ですが、もちろん現在の活動方針として、露出を少なくしている様です。
それと二人の母親になっている事も少なからず影響しているのかも知れませんね。
今回の記事では、浜崎あゆみさんの全盛期の活躍を中心に紹介したいと思います。
1995年に松浦勝人と知り合った事が大きな転機となる
地元福岡の中学を卒業後、上京して大手事務所のサンミュージックに所属していた浜崎あゆみさん。
上京後の仕事環境もかなり恵まれており、ドラマ、映画、グラビアといろいろな活動を行っていました。
ですが、俳優では菅野美穂さん、内田有紀さん、観月ありささん、グラビアでは雛形あきこさんがブレイクした為、浜崎あゆみさんが高校時代にブレイクするには至りませんでした。
またサンミュージックは80年代、90年代にアイドルを多く輩出していた事務所ですが、当時はアイドル冬の時代とも言われ、アイドルでは成功する可能性も低かったと思われます。
そんな不遇な時代を過ごしてた浜崎さんですが、1995年頃に六本木のディスコ ヴェルファーレに出入りしていた事が、浜崎さんの運命を変える事になります。
ヴェルファーレというのは1994年12月にオープン、2007年1月1日に閉店した当時、港区六本木に存在した巨大ディスコでした。
当時の「アジア最大のディスコ」で1500人も収容できる規模でした。
このディスコの所有者が小室哲哉並びにavex traxでした。(設立者の一人が松浦勝人氏)
ここで後の公私のパートナーとなる松浦勝人さんと知り合う事になります。
96年サンミュージックとの契約切れを契機にavex移籍
ヴェルファーレで松浦勝人さんと出会った浜崎さんですが、96年の年末に所属事務所だったサンミュージックの契約が満了となります。
浜崎さんから「エイベックスでやりたい」と聞いていた松浦さんはこのタイミングで浜崎さんを誘い、エイベックスに移籍する事になります。
翌97年から約3カ月間アメリカに渡り、ボイストレーニングを受けています。
ここから歌手浜崎あゆみのデビューに向けて入念な準備期間に入る事になります。
当時の浜崎あゆみさんはブレイクはしていませんでしたが、やはり大手の事務所に所属してた為、そこそこ世の中に知られている状態ではありました。(筆者も知っていました。)
その為、松浦さんはこの時のイメージを断ち切る意味もあり、イメージの転換に苦心した様です。
浜崎さんが歌手として再デビューするのは98年4月8日ですが、その時まで完全に表舞台から消える様な状況だったと記憶しています。
当時のavexは小室氏と衝突し、新しい稼ぎ頭となる存在が必要だった
エイベックスと言えば、現在は有名で大手の音楽事業者ですが、当時はまだまだ新興の企業でした。
そして、一躍エイベックスを大手にのし上げたのが、小室さんプロデュースによるアーティストや楽曲の数々でした。
ですが、浜崎さんの再デビューの準備に入った頃は、小室さんのブームも一段落し、一大ブームを巻き起こした安室奈美恵さんも結婚・妊娠で一時休業に入る時期でした。
さらにこの頃から小室哲哉さんとの関係も上手く行かなくなっていた頃で、会社としては大きな稼ぎ頭が無くなってしまった状態でした。
その為、第2の安室奈美恵さんや華原朋美さんを狙って浜崎あゆみさんに全力で投資、注力する事を松浦さんは決定します。
しかし、周囲からはアイドル顔の浜崎さんが歌手として成功するのは厳しいとの反対意見が出て、周辺からは猛反発に逢いましたが、松浦氏は必死に売り出そうと奔走していたそうです。
この事が松浦さんに好意をもつキッカケとなったそうです。
98年に歌手デビューし、1年で5枚のシングルをリリース
97年から入念な準備をし、98年4月8日に歌手:浜崎あゆみとして「poker face」でデビューします。(浜崎さんが19歳の時)
歌手デビューに際し、芸名を現在の「浜崎あゆみ」に変更します。
1枚目の画像がサンミュージック所属時代の浜崎さんで、2枚目の画像が歌手デビューした時の浜崎あゆみさんです。
元から童顔のアイドル顔ですが、歌手デビュー後はショートカット、ブラウンの髪色に変え、極力アイドルとしての幼さを抑える様な容姿に変わっているのが分かるかと思います。
デビューから僅か2か月後の98年6月10日に2枚目のシングル「YOU」を発売
98年8月5日には3rdシングル「Trust」を発売
98年10月7日には4thシングル「For My Dear…」
98年12月9日は5thシングル「Depend on you」を発売します。
なんとデビュー年だけで2カ月間隔で5枚ものシングルを発売するリリースラッシュで大々的に売り出しを行います。
またこれらの5曲すべてにCMや番組のタイアップが付けられており、徹底的な露出戦略が取られました。
もちろん、本人も歌番組や雑誌等のメディアへの出演を積極的に行っています。
当時の人気歌番組であった、「HEY! HEY! HEY!」や「うたばん」、「ミュージックステーション」はもちろん、とにかくあちこちの歌番組に出演していました。
ただし、入念に準備してデビューした浜崎さんですが、そんなに都合よくいきなりヒットする訳もなく、デビュー年に発売した5枚のシングルは10万から20万枚とセールス的にはそこそこという状態でした。
しかし、全ての楽曲で浜崎さん自身が作詞しており、何より大量のメディア投入戦略で、浜崎さんの顔と名前を覚えてもらおうという作戦だったので、作戦としては十分な効果をあげていました。
分かりやすく言えば、俳優の剛力彩芽さんや武井咲さんがデビュー当初にあちこちのドラマに出演してた事から言われたごり押しと同じ手法だったと言えば分かりやすいでしょうか。
もちろん、それが出来たのも松浦氏が会社を挙げて投資とリソースを注力すると決めたからに他なりません。
99年に大ブレイク、女子高生のカリスマに
99年も浜崎さんの怒涛の作品リリース作戦は続きます。
年明け早々の99年1月1日に上記アルバム「A Song for ××」を発売します。
これは98年に発売したシングル曲を全て含むオリジナルアルバムで非常にお得感のある内容となっており、初動売上が54万枚となり、オリコンアルバムランキング初登場1位となります。
トータルセールスは145万枚のミリオン越えとなり、大ブレイクのキッカケとなります。
当時は恋人でもあった松浦氏は
「いくら嫌われてもあるべきものが内面にきちんとあれば、それが理解された時、嫌われ度合いが大きいほど振り子は次には逆に振れる。
『嫌い』から『好き』に大きく振れる。
だから、自分の人生を全部暴露しちゃえ、いい詞が書けることは間違いないんだから、それで押していけ」
引用元:Wikipedia
という戦略を取っています。
デビュー当時は、既に人気となっていた華原朋美さんと同じようなキャラだった事で、評判はあまり良くなかったそうです。
しかし、喋り方が馬鹿っぽいと言われても、一人称を「あゆ」と呼ぶことも素の彼女なので、すべてをさらけ出して素のままで行こうと決断したそうです。
7thシングルでオリコン1位に
その後も怒涛のCDリリースラッシュは続き、この年は98年を上回る7枚ものシングルをリリースしています。
もちろん変わらずメディア露出戦略も行われ、リリースの度に街に浜崎さんの姿が溢れかえる様な事態になります。
そして、7thシングルでついにオリコンランキング1位を獲得します。
この曲は当時既にプロデューサーとして活躍していたシャ乱Qのつんくさんのプロデュースの楽曲で、カップリングはつんくさんとのデュエット曲になっています。
当時は上記の様に一緒に歌番組にも出演していました。
98年と同じく、99年リリース分の全ての楽曲にもタイアップが付いていたのは言うまでもありませんね。
またこの年くらいから、浜崎あゆみさんご本人がCMに出演する様になり、よりメディアでの浜崎あゆみさんの露出が増えていく事になります。
ちなみに結果論ですが、当時の浜崎あゆみさんは「桃の天然水」のCMに出演しています。
そしてこのCMに出演したタレントさん達が後に不幸な目に遭っているとかで、現在では「桃の天然水の呪い」と言われているそうです。
内容が気になる人はネットを検索して見てください(笑)。
99年7月14日発売の9thシングル「Boys & Girls」ではついに売上がミリオンを突破し、名実ともにTOPアーティストの仲間入りを果たすことになりました。
この曲でこの年の紅白歌合戦にも初出場しています。
次の99年8月11日発売の10thシングルでは遂に初動売上でミリオンを突破し、浜崎あゆみさんの人気をさらに押し上げる事になります。
99年11月10日には早くもセカンドアルバムを発売しています。(11thシングルも同発売日)
「LOVEppears」もこれまでのシングルを含めており、初動売上は120万を記録し、最終セールスは再発盤も含めると256万2,000枚を売り上げる事になりました。
また当初は楽曲の作詞のみ浜崎さんが手がけていましたが、次第にいろいろな部分に関しても自身でチェックする様になり、浜崎あゆみのアーティストイメージを確立していく事になります。
現在では最終チェックの大半を浜崎さん自身が行う様になっているそうです。
これらの成功で、一気に女子高生やギャルを中心にカリスマ的存在となり、浜崎さんの楽曲以外にもアーティストグッズ、書籍、写真集などでも利益も生み出す様になります。
現在女優としてだけでなく、Youtuberとしても大活躍する仲里依紗さんもこの頃に浜崎あゆみさんのファンになった様で、現在も熱烈なファンであることは有名ですよね。
2000年には全国ツアーを開始、CD総売り上げ200億円突破
98年のデビューから僅か2年で大ブレイクを果たした浜崎あゆみさん。
徹底したメディア露出戦略が大成功となりました。
2000年も変わらず、怒涛のCDリリースは続き、この年もシングル7枚、アルバム1枚を発売しています。
またこの年から全国ツアーも行う様なりますが、多忙を極めた事から左耳の疾患を抱える事になります。
本来は症状が出た時点で適切な治療を始めるべきところでしたが、浜崎さんは仕事を続けました。
歌手デビューを果たしてまだ3年目、まだまだ頑張り時だと考えたのでしょう。
結局、治療を後回しにした事により、2008年には左耳の聴力は完全に失う事になってしまいます。
2000年当時の話に戻りますが、この年のCDセールスは99年を上回り、16thシングルの「SEASONS」では136万7,000枚を売り上げます。
19thシングルの「M」は132万枚売り上げます。
後にこの曲は松浦勝人さんの事を歌詞にしていた事が明らかになります。
もちろん、この年も楽曲だけでなく、CM等にも数多く出演し、前年を上回る活躍となり、CD売上も200億円を突破します。
この年からは年末のカウントダウンライブも行い、昨年同様に紅白にも出場しています。
2001年からはレコード大賞3連覇
2001年も浜崎あゆみさんの人気は不動で、この年は20thシングルの「evolution」をはじめ24thシングルまでを発売しますが、いずれもオリコン1位を獲得しています。
ただ、シングル売上では100万枚を超えるセールスは達成できませんでした。
といっても浜崎さんのセールスが落ちた訳ではなく、この頃からCDが売れない時代に入っていた事も影響しています。(特にシングルは数字の落ち込みが激しかった)
そして2001年3月28日には初のベストアルバム「A BEST」が発売され、最終的に429万4,000枚を売り上げる大ヒットとなりました。
ちなみに同日発売で宇多田ヒカルさんのアルバムも発売されました。
宇多田ヒカルさんもこの頃が正に絶頂期とも言える人気でした。
筆者もこれを書いていて当時の事を思い出しました。
筆者はヒッキーファンだったので、宇多田ヒカルさんのCDを買った事を覚えています。
なつかしいですねぇ(笑)。
CDが売れなくなってきた頃にもこれだけの売り上げを叩きだす二人のアーティストパワーが如何に凄かったかが分かるエピソードですよね。
まあいろいろなTV番組に率先して出演する浜崎さんに対して、宇多田さんはあまりTV番組に出てくれないという差はありましたが。
そして、この年の24thシングル「Dearest」で初のレコード大賞を受賞します。
この年もCD総売り上げが200億円突破する偉業も前年に続き達成しています。
翌2002年からは浜崎あゆみさんの冠番組「ayu ready?」の放送が始まっています。
深夜放送のバラエティ番組でしたが、ゆる~~い、素の浜崎さんが見られた番組だったと記憶しています。
この番組では加藤晴彦さんとも共演されています。
サンミュージック時代の養成所の看板にほとんど無名時代の二人の画像が並んでいた頃の関係を知っているとこの共演は感慨深いものがありますね。
浜崎さんもそうですが、この頃のミュージシャンの方々はMCも卒なくこなしていて器用だなと感じましたね。
お笑い芸人やアナウンサーの助けが無くてもちゃんとバラエティ番組として成立していましたからね。
アーティスト業に話を戻しますが、2002年は4枚のシングルを発売し、27thシングルの「H」では2002年発売の全シングルの中で唯一100万枚を突破するセールスを記録しています。
先ほども触れましたが、2000年代からCDは徐々に売れなくなってきている中でのミリオン達成なので、まだまだ浜崎さんの人気が高い事が分かります。
28thシングル「Voyage」では自身2度目のレコード大賞を受賞しています。
続く2003年も31thシングル「No way to say」で史上初のレコード大賞3連覇を達成しています。
ちなみにこの年はSMAPの「世界に一つだけの花」が最もCDセールスでは売れた作品でしたが、楽曲コンセプトに沿わない理由で賞レースは辞退しています。
また昭和時代のジャニーズは賞レースに参加していましたが、SMAPが活躍した時代のジャニーズは賞レースには一切参加していなかった事も影響しているのかも知れません。
これ以外にも音楽に関する賞は多数受賞しており、以下の様な受賞歴があります。
- 日本ゴールドディスク大賞 アーティスト・オブ・ザイヤー(2001年、2002年、2004年)
- 日本有線大賞 大賞(2001年、2002年)
- 全日本有線放送大賞 グランプリ(2000年、2001年、2002年〈ポップス部門〉、2003年〈ポップス部門〉)
この中で日本ゴールドディスク大賞は一番、一般層にも分かりやすい賞として知られています。
この賞は1年間でのCD、DVD、BDの売り上げ数が最も多かったものが大賞を受賞する形です。(現在は配信数もカウントされている様です)
つまり1年で最も売り上げた人が表彰される単純で透明性が高い賞でした。
現在も賞自体は存続していますが、浜崎あゆみさんが全盛期の頃には授賞式はTV放送されており、受賞者によるライブパフォーマンスもありました。
もちろん、筆者も毎年見ていました。
実質的な売り上げの年度チャンピオンを2001年、2002年、2004年の3度達成していると言う事ですね。
お客さんが買ってくれた枚数の結果なので、アーティスト本人も一番うれしい賞なのではないかと思います。
裏でお偉方が密談したり、裏金積んだり、事務所やレコード会社の政治力で決まるどこぞの賞とは大違いですからね。
現在は結果の発表だけとなっている様です。
リミックスアルバムも通算で26枚もリリースしている
浜崎あゆみさんはデビュー当初は名前と顔を浸透させるために、CDリリースを大量に行う方法で大成功を収めました。
浜崎あゆみさんはアーティストとして活動しておよそ25年弱となりますが、シングルはCDでは50作以上、アルバムはミニアルバム、ベストアルバムを含めると30作以上をリリースしています。
平均しても1年に2枚以上のシングル、1枚以上のアルバムを発売しているという事になります。
普通に考えてもかなりのハイペースで作品を世に出している事が分かります。
それだけ多くの作品を世に送り出していますが、リミックスアルバムもこれまで26枚もリリースされています。
リミックスアルバムと言えば、複数の既存曲を編集して新たな楽曲を生み出す手法の一つで主にディスコ等で、お客が踊りやすい曲やメロディーを長く引き伸ばす方法として編み出された手法なのだそうです。
要はある楽曲でノリが良く踊りが盛り上がる様な箇所を繋ぎ合わせてループさせる方法で、昔は同じレコードを複数枚用意して交互に演奏するなどして実現していたそうです。
浜崎あゆみさんはこれまで26枚ものリミックスアルバムを発売していますが、いずれもディスコやクラブ向けのアレンジが施され、そういった場所で使われるような楽曲を世に送り出しています。
特に2000年代はEUROBEAT(ユーロビート)が流行った事もあり、浜崎あゆみさんのリミックスもEUROBEATアレンジが多く発売されています。
特に上記画像の「SUPER EUROBEAT presents ayu-ro mix」はこのアルバムのみで65万枚を売り上げており、当時のディスコやクラブにも浜崎あゆみさんの楽曲を浸透させる事に成功しています。
浜崎あゆみさんの全盛期と呼ばれる2000年代にはリミックスアルバム単体で少なくとも5万枚前後は売れています。
またこれらのリミックスの作成に関しては、いわゆる有名ヒップホップバンドのメンバーやプロのDJに依頼されているものが多く、ディスコやクラブでブレイクする事を十分に狙って作成していた事が分かります。
浜崎あゆみさん以外にも多くのアーティストがディスコ・クラブ向けにリミックス曲をリリースしていますが、いずれも数曲や、アルバムでも数枚程度で、浜崎あゆみさんのリリース数には遠く及びません。
現在でもこれだけ数多くのリミックスアルバムを発売したのは浜崎あゆみさんが唯一かも知れません。
2000年前後は殺人的なスケジュールをこなしていた
さて、いわゆる音楽界で天下を獲ったような状態に2000年頃からなる訳ですが、浜崎あゆみさんが行った戦略というのが、これまで紹介した様に徹底したメディア露出戦略でした。
つまり時間がある限りは歌番組をはじめ様々な番組やメディアに出演を続けていました。
ブレイクする前にその様な手当たり次第の様な戦略を行っていた為、ブレイクしてもその量を変えられず、むしろ増えていく事になったと考えられます。
となれば、この頃の浜崎あゆみさんの忙しさは尋常では無かったと考えられます。
先ほども紹介しましたが、歌手デビューから数年は1年で5枚以上のCDシングルとアルバムを1枚以上は発売するような驚異的なスケジュールでした。
2カ月程で新曲を制作、販売し、それに伴うプロモーション、MV撮影、ジャケットやポスターの撮影。
楽曲は全て浜崎さんが作詞としていたとなれば、その創作時間も必要になってきます。
その間にアルバムの制作。(もちろん新譜に関しては浜崎さんが作詞)
さらにこの頃からは数は少ないですが、作曲作業を行う楽曲も出て来ていますので、その分の仕事量が増えています。
楽曲が売れる売れないに関係無く、世に送り出すだけでもこのような仕事量をこなす必要がある訳です。
当然、売れっ子となっていた浜崎さんですから、これだけの仕事量で済むわけがありません。
昭和のアイドルで同じように社会現象になったピンクレディーも多忙すぎて当時の記憶が無いと語っている程です。
普通に考えても1年のスケジュールがCDの制作だけで使い切ってしまうのではと思えます。
これに加え、レギュラーのTV番組、CM出演、ライブ活動まであります。
そしてここに加えられるのが当時はまだまだ数が多かった歌番組の出演になります。
有名歌番組だけでも週に3,4本はありましたし、トークが無く歌だけの出演となれば週に二桁の番組に出演していたかもしれません。
年末年始になれば、特番の歌番組も多かった時代ですので、その頃のスケジュールは恐ろしいものだったでしょうね。
もちろん、そこにカウントダウンライブまで行ってました。
そんな忙しさの中で2000年からは雑誌の連載まで始めています。
人気女性誌の「vivi」にて『Ayuのデジデジ日記』というタイトルで浜崎さんが撮影した日々の仕事やプライベートが垣間見える写真の数々が掲載される日記の様な内容でした。
しかもこの連載は200回も続き17年の連載となりました。
多忙な時期にさらに仕事を増やしているという状況な訳ですが、当然それは浜崎さんのプライベートな時間や睡眠時間が削られる結果になります。
2000年代はネットは普及していましたが、SNSはまだ無い時代なので、アーティストから発信できる媒体はブログくらいしかなかったと思いますが、当時の浜崎さんはブログは行っていませんでした。
その為、当時の多忙なエピソードが本人から語られるのはあまり無いのですが、20周年時のインタビューで19歳頃の事を語っている記事がありました。
この中で当時の状況が分かるエピソードが、書かれています。
一日の膨大な仕事をこなしてやっと自宅に帰った浜崎さん。
ですが、20分後にはもう翌日の仕事の迎えの車が来るのだそうです。
20分で出来る事・・・・・・着替えて一息ついたらもう20分くらいは経ってしまいます。
まあ睡眠時間については移動の車中や待ち時間で少しずつとる事でなんとか持ちこたえていたのでしょう。
他にもTV番組に出演時に多忙な時期の珍事件を告白しています。
ダウンタウンがMCだった「HEY!HEY!HEY!」に出演した時に、忙しすぎる日常を語っていました。
その当時の平均的な睡眠時間は3時間前後だったと語っています。
そんな中でも特に忙しかった頃に起こった事件について話しています。
余りの忙しさに玄関先で力尽きて寝てしまったそうです。(2月頃)
家には入っていませんが、マンションの敷地内に居たそうなので身の危険は無かったそうです。
2時間程玄関前で寝ていたそうで、起きた時に思わず笑ったそうです。
この時は自宅に帰ったのではなく、何かを取りに戻っただけですぐに仕事に戻る予定で、車を下に待たせていたそうですが、力尽きて寝てしまった為に連絡が付かない事を心配したマネージャーが浜崎さんの母親に連絡したそうです。
連絡を受けた母親が見に行くと、玄関先で力尽きて寝ていた浜崎さんを発見しますが、ここで予想外の行動をしています。
母親は起こすわけでもなく自分が羽織っていたストールを浜崎さんに掛けてその場を立ち去ったそうです。
そしてマネージャーには「寝てます」と報告したんだそうです。
もちろん、その話を聞いていたダウンタウンの二人は上記の様に突っ込んでいましたが(笑)。
ちなみにこの時の楽しみは仕事のあとの缶ビールだったそうです。
年に10億円以上の年収があった頃の楽しみが缶ビールって泣けますね・・・・。
そして浜崎あゆみさんも福岡出身なので、それなりの酒量は飲める酒豪の様ですね。
過去にブレイクした歌手やアイドルは時代毎に同じような殺人的なスケジュールをこなしていた時期が本人たちの口から明かされています。
昭和だとピンクレディー、平成だとモーニング娘。やAKB48、EXILE等が同じようにブレイクした時期がありましたが、浜崎さんと決定的に違う事があります。
それは浜崎さん以外はすべてグループだった事です。(ピンクレディーも一応二人組)
多忙だったとしても多少は分散されます。
特にグループの場合は仕事中に待ち時間(撮影、インタビュー、レコーディング、メイク等で大人数故の何らかの順番待ちの時間)等があったでしょうが、ソロアーティストの浜崎さんにはそれがありません。
常に自分一人がフル稼働していたと考えれば、恐ろしい仕事量をこなしていた事が想像されます。
他には2017年にインスタグラムに投稿した内容で、忙しかった当時の事に関する内容がネット記事になっていました。
その時の投稿が上記ですが、2000年前後の多忙さは先ほど紹介した様な、玄関前で寝てしまったり、自宅に帰っても20分後にはもう迎えが来るような忙しさでした。
そんな中で、浜崎さんは食事や息抜きで新宿2丁目に頻繁に通っていたそうです。
それが心の支えにもなっていたとも書かれています。
仕事が終わったらすぐに帰宅して少しでも寝る時間を作る事より、新宿2丁目へ行っていた事になるのですから、大事な場所だった事が分かります。
アーティスト以外で世間に与えた影響の数々
前述までは主にアーティストとして成功した浜崎あゆみさんの実績を紹介しましたが、ここではそれ以外で浜崎さんが大きな影響を与えた分野について紹介したいと思います。
ベストジーニストで女性初の殿堂入り
まずはベストジーニストから。
この賞は1984年から始まった歴史ある賞で、その名の通り、ジーンズが似合う有名人やジーンズの普及に貢献した人を表彰する賞です。
ちなみに上記は2021年度の授賞式の画像です。
そして浜崎あゆみさんはブレイクした2000年に初受賞しています。
2001年に2度目の受賞。
2002年は受賞せず、2003年に3度目の受賞。
ちなみに草彅剛さんが激やせしていますが、これは当時主演したドラマの為ですね。
このドラマの主題歌が「世界に一つだけの花」ですね。
4度目の2004年はキンキキッズの堂本剛さんと受賞しています。
ちなみに2004年にはこんな人も受賞しています。
ホリエモンこと堀江貴文さんも過去に受賞しています。
まあ世間に出初めの頃は時代の寵児的な扱いでしたからね。
今と違って(笑)。
2005年にも受賞し、通算5度の受賞となり、殿堂入りを果たしています。
男性だと既に木村拓哉さん、草彅剛さんが殿堂入りしていましたが、女性では浜崎さんが初の快挙となりました。
ちなみに2005年の授賞式の画像が上記ですが、左端の男性は氷川きよしさんです。
当時の氷川さんから現在の容姿に変化する事を予想出来た人は絶対に居ないでしょうね(笑)。
さらにちなみに右端は好感度高過ぎ時代のベッキーさんですね。
ネイルクィーンも3年連続受賞し殿堂入り
次の偉業はネイルクィーンです。
ネイルのオシャレと言えば、長年マニキュアを塗るくらいしかありませんでした。
しかし、現在は付け爪や様々なアクセサリや飾りを爪に付けるデコレーションが主流になっています。
上記の様な日常生活に確実に支障が出る様なデコレーションまであります。
流石に派手なデコネイルまでは行きませんが、ネイルのオシャレでも浜崎あゆみさんは当時から注目される存在でした。
上記画像は当時の画像の一部ですが、いろいろなネイルを披露して、ネイルの普及に大きな影響を与えています。
そしてネイルに関しても関連団体が開催している「ネイルクィーン」という賞が1996年から毎年行われています。
このネイルクィーンの分野でも2000年から2002年まで3年連続で受賞し、こちらも殿堂入りとなっています。
メディアに大きく取り上げられる様になったのが2002年度の授賞式からでしたが、当時は研ナオコさんとの同時受賞でした。
ちなみに上記画像は浜崎あゆみさんのファンである女性のネイルです。
浜崎さんのトレードマークである「A」のマークがデザインされているのが良く分かります。
デカサングラスで日本メガネベストドレッサー賞
次はサングラスです。
現在もプライベートではサングラスを付けている姿をよく見かける浜崎さん。
こちらは2022年9月の投稿ですが、御覧の様にサングラスを着用しています。
そして、ほとんどの場合、大きなサングラス(いわゆるデカサン)を付けている事が多いですね。
若い頃からも上記の様にいろいろな種類のサングラスを着用していました。
そして、サングラスでも眼鏡の業界団体が主催する日本メガネベストドレッサー賞を2001年にサングラス部門で受賞しています。
当時の浜崎さんが着用しただけでなく、浜崎さんのファンの人達が真似して着用した事も大きかったようですね。
浜崎あゆみをまねた白ギャルが誕生
浜崎あゆみさんがブレイクする前のファッションの流行りの一つが上記画像の様なガングロギャルがありました。
髪色は茶髪で肌は日焼けした小麦色が主流でした。
この小麦色の肌は冬でもこの色でしたから、当時の女子高生たちは日焼けサロン等で肌を焼いて黒をキープしていました。
当時のファッション誌もガングロ系の雑誌がありました。
現在では日焼けなんてシミの元なのであり得ない事で、夏以外でも日差しの強い日の日傘は当たり前の時代ですが、こんな時代もあったんですよね。
そんな時代にブレイクした浜崎あゆみさん、肌は白く金髪のショートカットがたちまち人気となります。
ガングロ全盛時代に白い肌、金髪のショートカットスタイルを流行らせた浜崎さんですが、他にも浜崎さんが流行らせたファションがあります。
こちらの画像は浜崎さんが2001年に発売したシングル「evolution」のジャケット画像です。
この楽曲を披露した時に浜崎さんが身に着けていたものが流行しました。
こちらの画像は同曲のPVですが、腰にファーの尻尾を付けているのが分かります。
当初はMV撮影時だけの小道具かと思われましたが、この当時の浜崎さんはメディアに登場する際には尻尾のファーを付けていました。
上記画像は同時期の浜崎あゆみさんで携帯電話の広告に出演した時のものですね。
TU-KAってブランド現在の人には分からないでしょうねぇ(笑)。
後にKDDIに吸収されるので、現在のブランドのauの御先祖のブランドという事になります。
この画像でも腰には尻尾のファーが付けられているのが確認出来ますね。
流石に腰にファーを付けるのは敷居が高いので、携帯のストラップにファーを付けている人も居ましたね。
またストラップも現代の人には通じないんでしょうね(笑)。
全身ヒョウ柄のジャケットを披露し、ヒョウ柄を流行らす
こちらは2000年9月27日に発売された浜崎あゆみさんのオリジナルアルバム「Duty」のジャケット画像です。(最終売上は290万枚)
見ても分かる様に全身ヒョウ柄の衣装に身を包んでいます。
まあこの画像に関してはほぼコスプレですが・・・。
ですが、普通に衣装でヒョウ柄を着こなしており、浜崎あゆみさんの影響で、ヒョウ柄が流行する事になります。
浜崎さんモデルの携帯が出てたことまでは流石に覚えてなかったですね(笑)。
歌唱時の衣装でもヒョウ柄はありましたが、衣装だけでなく、プライベートでも全身ヒョウ柄コーデは数多く確認されています。
2022年9月のインスタ投稿でもヒョウ柄のコートを着ています。
現在のSNS投稿でもたまにヒョウ柄コーデが確認出来ます。
流石に40歳を超えてもヒョウ柄を着こなせるのは浜崎さんくらいしか居なさそうですね。
世間的にもヒョウ柄やアニマル柄が似合う人物の1位に10年以上前に選ばれている位ですからね。
携帯電話はデコレーションが当たり前
過去に携帯会社とコラボしてヒョウ柄の携帯電話を販売した事もある、浜崎あゆみさん。
ですが、ご自身が普段使いしていた携帯は、残念ながらヒョウ柄ではありませんでした。
浜崎あゆみさんの携帯は現在もそうですが、デコレーション携帯(通称:デコ電)を使われています。
デコ電自体がもう通じないかも知れませんが、ガラケー時代に流行った電話のデコレーションです。
装飾方法としては上記画像の様に携帯電話の表面に装飾(主にスワロフスキー)を行う事です。
現在もスマホのケースにデコレーションを行う事が出来ますが、元々はガラケーのデコレーションが起源になります。
そして、浜崎あゆみさんの携帯電話もこのデコレーション携帯を使われていました。
上記画像は前述で紹介しましたが、女性ファッション誌「VIVI」に連載されていた、浜崎あゆみさんの「デジデジ日記」で紹介された浜崎あゆみさん本人の携帯電話です。(掲載時期までは不明)
この様に浜崎あゆみさんがデコレーション携帯を使用している為、女性の間でデコ電が流行る事になります。
もちろん、これは素人が簡単に出来るものでは無いので、専門業者に頼んでデコレーションをしてもらう事になります。(専用キットも発売されていたので、まあ器用な人なら自分でもできなくもないですが・・・・・)
現在でもスマホケースはもちろん、電子タバコケースまで装飾できるんですねぇ。
上記画像の様に装飾してくれる業者さんが沢山ありますが、こういった業者が出来たのもデコレーション携帯が流行った為かも知れませんね。
こちらはスマホケースですが、浜崎あゆみさんモチーフのデザインです。
また先程の浜崎さんのデコ電に関しては同じデザインを装飾する業者さんもいくつかありました。
1枚目が浜崎あゆみさんと同じデザインで装飾された携帯で、2枚目が先程紹介した浜崎さんが当時所有していたデコ電です。
デザインが同じですが機種が異なるのが分かります。
ちなみに上記画像は浜崎あゆみさんのインスタグラムの画像ですが、現在のスマホケースでもスワロフスキー等の装飾が施されているのが分かります。
ただ、ネットではこのデザインはダサいと言われている様ですが・・・・。
上記はいずれも浜崎あゆみさんのインスタからの画像ですが、他にもいろいろな種類のケースがある様ですね。
基本はスワロフスキーの様ですが。
2018年投稿では上記の様なシンプルな時もあったようですね。
ちなみにライブで使用する自分用のマイクもスワロフスキー等の装飾がされています。
また過去に浜崎あゆみさんはアナフィラキシーショックで入院した事がありましたが、その後上記のニュース画像の様に退院して車いすに座りながら仕事を再開していました。
この車いすですが、アップにしてみると・・・・・ここにもスワロフスキー装飾がされています。
これも浜崎あゆみさん専用の車いすという事になりますが、何時から用意していたんでしょうね(笑)。
そして、ドリンクボトルもスワロフスキーですね。
浜崎さんの身の回りにはこの様な装飾した専用品がどれだけあるのか大変気になりますね(笑)。
2020年に浜崎さんの自伝ドラマが放送されましたが、その中で使用されたガラケーもしっかりとデコ電が使われていた様ですね。
2004年以降もオリコン1位を獲得し続けるもCD売上は苦戦
2002年から始まった浜崎さんのレギュラー番組も2004年には終了しています。
またこれまで数多くCM等にも出演していましたが、これらも降板し、歌手業に専念する様になります。
さらにこの年は浜崎さんとこれまで二人三脚で一緒に歩んできたエイベックスにお家騒動が勃発します。
詳細は省きますが、要は松浦さんと他のエイベックスの経営陣が揉めて会社の分裂危機が起こりました。
この時に浜崎さんは大恩ある松浦さんについて行くような主旨の発言をした事で、この騒動が収まったという事がありました。
当時浜崎さんはエイベックスの売り上げの4割以上を占めていたそうで、浜崎さんがエイベックスを支えていると言っても過言ではない状況だった様です。
その為、浜崎さんが松浦さん支持を表明した事で騒動が収束となった様です。
ただし、この様な騒ぎがあった為に、浜崎さんはこの年以降から賞レースから遠ざかる様になります。
またこの頃からは驚異的な売り上げ枚数を誇った浜崎さんもCD売上枚数は減少していく事になります。
これは前述から再三書いていますが、CDの売り上げ自体が右肩下がりで下がっていた時代で、浜崎さんであってもその流れには逆らう事は出来ませんでした。
これ以降は浜崎さんの楽曲もCDからデジタル配信へと移行していく事になります。
2012年にCD総売り上げ5000万枚を突破
その後も第1線でのアーティスト活動を続けていますが、歌番組の減少によりメディアの露出は必然的に減っていく事になります。
これは浜崎さんに限らず全てのアーティストに関わる事ですが。
そして、2012年には全ソロアーティストとしては初のCD総売り上げ5000万枚突破の偉業を達成しています。
また2013年まで15年連続で紅白歌合戦に出場していましたが、2014年に選考から漏れた事をキッカケに紅白の卒業を自身のSNSで発表しています。
楽曲はシングル中心からアルバムへ、活動の中心はライブへ
さらにシングルのリリースは抑えられるようになり、アルバム中心の創作となります。
さらに15周年を越える頃からはライブ活動をアーティスト活動の中心とする様になり、情報発信もSNSメインとなり、デビュー当初は積極的に行っていたメディア出演からも一線を引くことになります。
仕事以外の環境面でも怪我や出産等も経験しており、現在は2児の母親になっています。
子育ての事を考えると、メディア出演中心の生活よりは、ライブ中心の生活の方が何かと都合がいいのかも知れませんね。
ちなみに2022年9月22日のインスタグラムの投稿ではママチャリの前後に子供用シートが装着された事を報告されています。
今までは長男のシートだけだった様ですが、現在は次男のシートも装着してのお出かけとなった様です。
ソロアーティストで打ち立てた記録は数知れず
1998年に歌手デビューしてキャリアは間もなく25年の節目を迎えようとしている浜崎あゆみさん。
これまでの活動で打ち立てた記録を紹介したいと思います。
- 総売上枚数 : 5116万枚 ソローアティスト歴代1位
- アルバム連続首位獲得数 : 8作 ソロアーティスト歴代5位
- アルバム首位獲得数 : 20作 ソロアーティスト歴代2位
- アルバムTOP10獲得数: 53作 (2021年時点) ソロアーティスト歴代2位
- 連続首位獲得年数: 13年 (1999-2011) ソロアーティスト歴代3位
- シングルミリオンセラー: 5作 ソロアーティスト歴代1位
- シングル連続ミリオン獲得年数 : 4年 ソロアーティスト歴代1位
上記の様な輝かしい記録を打ち立てています。
アルバム関連で順位が高くないのは、浜崎さんよりキャリアが長いTOPアーティストの活躍が影響している様です。
しかし、25年弱のキャリアで総売り上げ枚数が1位になっている事は如何に偉業なのか良く分かるかと思います。
全盛期頃の年収は2000年で推定6億円、翌2001年は倍増の推定12億7,000万円だと言われています。
またエイベックスの松浦さんが後にざっくりとした数字ですが、全盛期の3~4年の浜崎あゆみさんの売り上げを500億円くらいと語っています。
この額が当時のエイベックスの売り上げの4割から5割を占める程大きかった為に、株主に浜崎さんに依存し過ぎていると怒られた事もあったそうです。
まあ浜崎さんが倒れたり、他のレーベルに移籍しただけで会社が傾く訳ですから、その活躍ぶりが桁違いだった事が良く分かりますね。
これが前述したエイベックスのお家騒動に繋がる訳ですね。
現在は40代となり、露出も少ない影響でいろいろな噂も言われていますが、匿名掲示板5ちゃんねるでも上記の様なスレッドが立つくらい、当時の人気がすさまじかった事が分かります。
いわゆる歌姫と呼ばれる人は浜崎さん以外にも沢山いますが、その方達の名前をみると、やはりビジュアルの高さも人気に大きく影響している様な気もします。
浜崎あゆみさんに関しては歌手デビュー前にアイドル顔なので、アーティストとして成功しないと周囲から反対された事を紹介しました。
その為に歌手デビューする際には以前のアイドル色を徹底的に排除し、アーティストとして成功しました。
アーティストとしての人気が確立した段階ではアイドルでも通用するルックスがさらなるファン獲得に大きく影響したと思います。
「歌が上手くて、歌詞(楽曲)が良くて、しかもカワイイ(美人)」
こういった表現で評価される女性アーティストが過去に沢山いた事もその証明なのかも知れません。
もちろん、アーティストとしての人気が確立すれば、ルックスはほとんど人気に影響しないとは思いますが、新たなファン獲得の間口の一つと考えた時にはルックスが大きな武器になると思います。
やはり見た目でファンになる人も居る筈ですからね。
そう言われる事を嫌ってメディアに出ないアーティストもいますが、芸能界ではアイドルという見た目に特化した職業で人気になる事が証明されています。
その為、どうしてもルックスが高いアーティストは表に出したいという事務所側の思惑もあるのかも知れませんね。
浜崎あゆみさんの場合、元々スカウトされて芸能界に入って、大手のサンミュージックに所属していた訳ですから、やはりルックスの高さはプロが認める程のお墨付きだったと思います。
なのでアーティスト人気が定着した後は、アイドルとしてのビジュアル人気が後についてくる様な事になったのではないかと思います。
ファッションやネイルやデコ電が世間で流行るのは浜崎あゆみさん自身のセンスや流行を見極める力もあった事も大きかったと思いますが。
芸能界デビューから駆け出しの頃
現在の浜崎あゆみさんの職業と言えば、アーティストですが、現在の成功を収めるまでには長い下積みとも言える期間があったのは有名な話ですよね。
全盛期について紹介する記事ですが、ブレイクする前の浜崎あゆみさんについても簡単に紹介したいと思います。
小学校の時に地元福岡でスカウトされ、サンミュージックに所属していた
浜崎あゆみさんは福岡出身なのは知れ渡っていますが、芸歴のスタートは小学校時代に地元福岡でスカウトされ、地方モデルとしてキャリアをスタートさせています。
上記SNSは福岡時代の浜崎さんを記憶されている方の投稿で、左側の画像が当時のポスターです。
この時の芸名は「浜崎くるみ」となっていました。
その後は東京に上京する事になりますが、所属事務所はサンミュージック(現:サンミュージックプロダクション)に移籍する事になります。
サンミュージックと言えば、80年代には松田聖子さんや早見優さん等のアイドルを輩出しており、90年代には酒井法子さんもデビューしています。
現在も存在する古参の超大手事務所に所属できていたので、環境的には恵まれたスタートだったと思われます。
ちなみにサンミュージックの養成所の看板に、加藤晴彦さんと共に起用され、都営地下鉄浅草線浅草駅のホームに長い間掲載されていた様です。
筆者は関西在住だったので、一切お目に掛かった事はありませんが、関東在住の方には多くの人達に長い間目撃された看板だった様です。
アーティストとして大ブレイク後も掲載されていたそうですから・・・・・。
そして、サンミュージック所属時代の芸名は「浜﨑あゆみ」(漢字の埼が﨑に変わり、音読では本名と同じになります。)
今更ですが、浜崎あゆみさんの本名は読みは変わらずで、「濱﨑歩」になります。
学校も当時の芸能人の定番中の定番である、堀越高等学校芸能活動コースに入学しています。
同級生には中山エミリさんが居たそうで、当時の画像もネットで確認する事が出来ます。
現在では有名な話ですが、1993年4月に放送された「ツインズ教師」というドラマで女優デビューを果たしています。
この時はまだ中学3年生で福岡から通って出演していた様です。
上記インタビュー記事でも取り上げられており、春から東京で女優活動を行う事が書かれています。
(中学時代なので芸名は浜崎歩)
この「ツインズ教師」の生徒役の出演者には現在も活躍する人達が多く出演しており、元TOKIOの長瀬智也さん(引退)、元V6の井ノ原快彦さん、金子賢さん、佐藤藍子さん、元女優の宝生舞さん、菅野美穂さん等が出演していました。
そして、この時にブレイクの切符を掴んだのは、同じく女優デビューだった菅野美穂さんでした。
浜崎さんもある程度注目されましたが、ブレイクするには至りませんでした。
また後の恋人になる長瀬智也さんとはこの時に知り合ったようですね。
菅野美穂さんもライバルですが、他にも内田有紀さんや観月ありささん等、アイドルとしての人気も高かった人達がブレイクしたのも影響したかもしれません。
その後も女優やアイドルとして活動するもブレイクはしなかった
その後も上記映画の「渚のシンドバット」に出演したり、ドラマにも複数作品に出演しています。
雛形明子さん主演の「闇のパープル・アイ」では雛形あきこさんの同級生役で出演。
この役はドラマオリジナルの配役らしく、恐らく事務所パワーが影響していると思われます。
また野島伸司さん脚本のドラマ「未成年」にも出演したいます。
こちらはかなりの有名作品なので、過去の出演作品の中では一番知られている作品だろうと思われます。
ただし、役柄は河合我聞さんの恋人役だったので、メインキャストでは無く、あくまで脇役での出演でした。
他にも数本の映画、ドラマ等にも出演していますが、いずれも主役での出演はありませんでした。
またこの時期には上記画像の様にグラビアアイドルとしても活動していました。
現在の浜崎あゆみさんは40代にも関わらず、かなりのスタイルの良さが目を引きます。
一説では豊胸疑惑があるくらいです。
ですが10代の時は年相応のスタイルで、胸もほとんどありませんでした。
上記画像は17歳の時のものですが、胸の大きさは15歳時とあまり変わらない様に見えます。
ルックス的には十分可愛いのですが、やはり当時は強力すぎるライバルがグラビア界には存在していました。
当時のグラビア界は浜崎あゆみさんの同級生の雛形あきこさんがグラビア界を席巻していました。
上記画像でも分かる様に、雛形さんは浜崎さんとは逆に10代前半から胸が大きかった為、グラビアアイドルとして大ブレイクしました。
東京に上京してからの所属事務所は前述した様に、超大手のサンミュージックでしたので、待遇的にはかなり恵まれていたのは間違い無いのですが、ドラマでもグラビアでも強力すぎるライバルが数多くいた為、どちらもブレイクするには至りませんでした。
緒形拳さん主演のドラマにも出演した事もあったんですけどね・・・。
ちなみにこの時代にはアーティスト活動はほとんど行ってはいませんでした。
サンミュージックと言えば、アイドルを多く生み出した事務所でしたが、やはりアイドル歌手には興味が無かったのかも知れませんね。
浜崎さん自身がアイドルに興味があったかは不明ですが、浜崎さんの高校時代はいわゆるアイドル冬の時代と言われた頃だったので、アイドルで活動しても失敗した可能性は高かったかも知れません。
まとめ
今回の記事では浜崎あゆみさんの全盛期について紹介しました。
現在の活動指針はライブ中心の活動と紹介しましたが、コロナ禍の影響でそれが思う様に行かないのは浜崎さんも歯痒いでしょうね。
まあこれは全てのアーティストが抱えている問題でしょうけど。
浜崎さんも楽曲の全てを作詞していますので、もう歌唱印税だけでも食べていけそうな感じですが、二人のお子さんの為にもまだまだ頑張らないといけないのかも知れませんね。
浜崎あゆみの全盛期についてのまとめです。
- 浜崎あゆみさんは地元福岡で中学生の時にスカウトされて地方モデルとして芸能活動をスタートさせる
- 中学卒業後は上京し、超大手事務所のサンミュージックに所属していた
- サンミュージック時代は俳優、グラビア等の活動をしていたが、ブレイクするには至らなかった
- 1995年頃に六本木のディスコ:ヴェルファーレに出入りしていた頃に、エイベックスの松浦勝人さんと知り合う
- 1996年年末にサンミュージックとの契約が満了となったタイミングで松浦氏からエイベックスに誘われ移籍する
- 97年から歌手デビューを目指し、アメリカでのボイストレーニングを開始する
- 浜崎さんの歌手デビューに際して、当時のエイベックスの総力を挙げて売り出す方針が決定されるが、松浦さん以外の幹部からは猛反対にあっている
- 98年4月に歌手デビュー、徹底したメディア露出戦略を取り、2カ月毎のCDリリースを行って浜崎あゆみさんが世間に認知される様にすすんでTVや雑誌等のメディア出演を行った
- 99年の7thシングルでオリコン1位を獲得し、9thシングルでミリオンを達成する
- 99年、2000年に発表したシングル、アルバムの多くがミリオンを達成し、女子高生やギャルのカリスマと呼ばれる様になる
- 2001年から2003年までは史上初の3年連続でレコード大賞を受賞している
- 全盛期の忙しさは尋常では無く、玄関前で力尽きて寝たり、自宅に帰っても20分後に翌日の仕事の迎えが来る等の逸話がある
- 全盛期の活躍は歌だけでなく、ファッション、ネイル、サングラス、携帯電話等多岐に影響を与えた
- 2012年にはソロアーティスト初のCD総売り上げ5000万枚を達成している
- 現在もアーティスト活動を行っているが、楽曲のリリースよりライブ中心の活動に移っており、メディアへの出演もほどんどない状態
上記は2022年9月15日に投稿されたインスタグラムですが、写っているのは浜崎さんのお母様で、丁度誕生日のお祝いをされている時のものです。
これまでお母様が表に出ている事は無かったと思いますが、随分お若く見えますね。
浜崎さんの年齢から察するに60代かと思いますが、それよりも若く見えますね。
コロナ禍でお客さんを会場に入れてのライブがなかなか難しい状況ですが、オンライン配信でのライブ活動も既に2020年から行われているので、今後はこれが主流になっていくのかも知れませんね。
もちろんお客と共に楽しむライブが一番いいのは言うまでもないですけどね。